霧社から武界、中正村へ

9/20 りえさんのバイクのガソリンを満タンに、頼りない地図を片手にいざ出発。
台湾の地図はどれも標高線がなく、しかも肝心なところ(武界や中正村など山奥の村)が途切れてしまっている。
まぁなんとかなる。記憶を辿ってバイクを走らせた。
 
“霧社事件”を知っている人がどれくらいいるだろうか。
私もここへ来て、当時を知る老人から話を聞くまではほとんど知らなかった台湾の歴史。
 
日本統治時代、強制労働や度重なる暴力に耐えかねて、
霧社の原住民が日本の警察や日本人小学校を襲った。周辺の村々から、やはり日本人の横暴に耐えかねていた人々が終結し、
戦うが、やがて鎮圧された。名もなき犠牲者がたくさん眠っている。
 
その歴史を語る石碑、銅像がここには残っている。
 
 
 

霧社にて、薬にはまった少年や非行に走ってしまった原住民の少年を預かる施設を運営していた場所、
数年前の洪水で施設は壊滅的な被害を受けていた。かつての食堂には背丈を越える草が生い茂り、
踏み込むことさえできない。ここを経営していたソウさん、シャンさんの行方が気になる。
 
 
 
霧社から親和村へ川沿いの道をくだる。道はところどころ土砂崩れによる影響を受けているものの、
民家への被害は少ないように思う。川は土砂で埋まり、生き物の気配を感じない。
 
 
親和村を通過し、武界に着くと教会に村の住民が集まっていた。
ここの教会も地震で倒壊し、その後新しく建て替えられたものだ。その誕生を祝う催しが開かれていた。
最初の言葉が「ごはん食べたか?(布農族の言葉でミナオニ アソウ カイシンという)」。これは布農族の挨拶のようなものだ。
まだであることをうっかり伝えると、その場に招き入れられ、目の前に山の食材が並ぶ。
 
自然とかつて日本語の教育を受けた老人が集まってくる。彼らの多くは原住民の名前、中国の名前、日本の名前、3つの名前を持っている。
地震以後、部界地区へ入った日本人がいたことを覚えてくれていた。
 
食事を頂いたあと、民宿を営む原住民のおじいさんのお家にお邪魔した。
街からおじいさんの娘たちが孫を連れて集まっている。週末になると帰ってくるのだそうだ。
 
  
 
居間には震災直後の写真が飾られてあった。
 
 
 
武界から中正村へ。この方角で合っているか、少々不安になりながら山道をひたすら走る。
 
山を越えると、はるか向こうに見覚えのある埔里の街が見えた。中正村はもうすぐ、胸が高鳴る。
 
中正村のあきこばあちゃん、ちょうどこれから埔里の老人ホームに向かうところだった。
一人暮らしがきつくなり、身体は言うことを聞かない。心配した息子夫婦がちょうど台中から戻ってきていた。
旦那さんは震災直後に持病を悪くして亡くなっている。当時、私はその知らせを霧社の施設にて聞いたのだった。
寂しい、辛いという言葉が突き刺さる。あきこおばあちゃんと仲良しの政子ばあちゃんや歌の好きなおばあさんの姿を見つけることができなかった。
 
 
 
 
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