ゆうやけこやけ

 先週の土曜日、水辺の教室が終わったあとの夕日。第十堰にて。
 
 
最近、吉野川自然教室のスタッフを見習って、
ちょっとした信号待ちなどで車のエンジンを止めるようにした。
すると、回りの車の走る音、エンジンの音の中に自分の空間だけが浮いているような感覚や、
しーんと静まり返った中に草むらから鈴虫たちの鳴く声が聞こえ、
楽しくなって一人、にやけてしまったりして…
 
 
 

谷関

松鶴地区から10分ほど上流へ車を走らせると、谷関という有名な温泉街がある。
4年前の洪水により被害を受けた建物は現在もそのまま残されている。
写真左端の建物は地震以後に建設され、6階建ての温泉宿であったが、2年も経たない内に全てを流された。
谷関からその奥の梨山までの道路は今も修復工事が続いており、観光客も少ない。
近くのホテルの方に話を聞くと、宿泊料金は地震前の半額だという。
 
 
谷関の街に入ると閉まったままの土産屋が並ぶ。道路の修復にはあと2~3年掛かる。
 
 
 
 

八仙山

今も松鶴地区に住むユーミンに八仙山(最高峰2424m)の麓を案内してもらった。
八仙山の森林区は台湾八景にも選ばれている。
 
 
深い山の中と谷から吹いてくる柔らかい風があまりに気持ちよくて、
見晴らしのいい展望台のベンチで横になって寝た。
少しの間だったと思うが、目が覚めると身体が軽くなったような気がした。
 
 
日本統治時代に作られた神社の遺跡。日本人が植えた杉の木。当時何を思い、木を植えたのか。
まだ若い杉の木の幹に手をあて、人の営みや時の流れを思った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

和平郷博愛村へ

9/22-23 台中からバスを乗り継いで、約2時間、ここはタイヤル族の集落。
 
地震の後、相次いだ台風や土砂崩れにより村の半分が壊滅的な被害を受けた。
以前に訪れた際に、川で水遊びをしたのが懐かしい。川岸には草木が生えていた。
現在の川は、大量の土砂が両岸に積まれており、重機で採掘した跡や土砂崩れによる傷跡が目立つが、
水は澄んでおり、魚も徐々に戻ってきているようだ。釣りをする人の姿も。
 
ちょうど4年前に政府、赤十字、台湾世界展望により、松鶴地区から車で20分ほど離れた土地に住宅が建設され、
40世帯がここに移り住んでいる。 日本で5年ほど暮らしていたというシャンさんは言う。 「被害を受けた全員が入れたわけではない。
被害の大きさによりここへ入る人が選ばれた。今はこちらに引っ越してきて良かったと思っているが、
いつか松鶴地区に戻りたい。必ず戻る。」
 
 
 
子供たちの多くは近くの小学校には通わず、車で20分かけて松鶴地区の小学校へ通っている。
朝の体温検査の様子。台湾でもインフルエンザが流行っている。
 
 
 
 
 

東勢南のバス停にて 続き

時系列が前後するが・・・。
 
東勢南のバス停にて、その続き。
 
谷関行きのバスの時間まではあと1時間半。誰もいないバス停。これはもう一度寝るしかないと思い、バス停のベンチで寝そべっていると、
先程、台中からここまで運んでくれたバスの運転手が戻ってきた。
片手にMinuteMaidのオレンジジュースを持っていて、私にそれを渡すとバスに乗れという。
どうやら中央のバスターミナルまで連れて行ってくれるらしい。
お言葉に甘えて運転手のとなりに座り、しばらく走ると見覚えのあるターミナルに着いた。
 
ターミナルで隣に座ったおばさんが日本語で話しかけてきた。
谷関の手前の博愛村に友達がいるから会いに行くんだということを話すと、
ここは初めてか、場所は分かるか、誰に会う、不在だったらどうする、と心配してくれる。
別の運転手は谷関から戻りのバスの時刻表(張り紙)を持っていけと渡してくれる。
住所と名前の書いたメモを見て、どこかへ電話をかける人。ユーミンを探してくれている。
バスが到着するまで、ターミナルでは日本語と中国語と原住民の言語が飛び交っていた。
 
このなんとも言えない台湾の人のあったかさに、いつも助けられる。
 

 松鶴地区に到着。

ユーミンの家まで歩くが、出かけているのか人の気配は無かった。
帰りのバスまでまだ十分時間があるので、出来るだけ待とうと思い、村が見渡せる高台に座った。
「あなた知ってるよ」と声を掛けてきたのは、小学校の先生、黄さんだ。
 黄先生。地震直後にお会いしている。
 
 松鶴地区の小学校。
 

小学校ではタイヤル族の踊りの練習をしていた。地震以後、小学校の生徒数は100人から半分以下の42人までに減っているそうだ。

 踊りの先生。お孫さんを連れて小学校へ来ていた。この方も日本語が達者だ。

 

黄先生の車で博愛村を回っているとき、ユーミンが山の仕事から戻ってきた。

ユーミンも変わりなく元気だ。

その日の夜は黄先生のお母さんの家に泊めさせて頂くことになった。

 

 

高雄 六亀・新開地区へ

9/21 今回、私たちがこの地区へ入れたのは、埔里の林さんのお陰だ。
林さんに紹介して頂いた彼は1300ccのジムニーに乗る。
 
ネクタイとスーツ姿で、高雄の駅前に現れ、コミュニケーションは中国語と片言の英語のみ。あとは久々の筆談。
彼は災害後、3週間ほどボランティアとして現地に入っており、この日は保険の営業の仕事中に抜け出して来てくれたのだった。
 
 
六亀に入ると至る所で大雨と土石流による被害が散乱しており、
その脅威を思うと想像がつかない。孤立した集落へ援助や物資を運ぶため、
とりあえず通した道は脆く、1ヶ月経った今も非常に危険な状態。
 
大量の土砂や埋まったままの住宅を前にどうすることもできない。
被災した方や住み慣れた土地から離れることを余儀なくされた方々の行方が気になる。
 
 

 六亀までの道のり。

 六亀。川沿いの倉庫、橋も流されている。

 新開地区。この先、道は完全に崩落。

 

 新開地区。この建物は3階建て。屋根まで土砂が埋まっている。ここでは28名の方が亡くなった。

 新開地区。大量の水と土石流により堰が消えた。

  新開地区。迂回路の修理のため、しばし足止めとなる。

 

その日の夜、高雄へ戻り、翌朝、宿泊先に現地を案内してくれた彼がフロントに置いていってくれたもの。

出勤前に届けてくれたそうだ。頼りになる仲間が出来た。

 彼が所属するボランティアセンターの紋章。サインと日付が書いてあった。

 

 

 

霧社から武界、中正村へ

9/20 りえさんのバイクのガソリンを満タンに、頼りない地図を片手にいざ出発。
台湾の地図はどれも標高線がなく、しかも肝心なところ(武界や中正村など山奥の村)が途切れてしまっている。
まぁなんとかなる。記憶を辿ってバイクを走らせた。
 
“霧社事件”を知っている人がどれくらいいるだろうか。
私もここへ来て、当時を知る老人から話を聞くまではほとんど知らなかった台湾の歴史。
 
日本統治時代、強制労働や度重なる暴力に耐えかねて、
霧社の原住民が日本の警察や日本人小学校を襲った。周辺の村々から、やはり日本人の横暴に耐えかねていた人々が終結し、
戦うが、やがて鎮圧された。名もなき犠牲者がたくさん眠っている。
 
その歴史を語る石碑、銅像がここには残っている。
 
 
 

霧社にて、薬にはまった少年や非行に走ってしまった原住民の少年を預かる施設を運営していた場所、
数年前の洪水で施設は壊滅的な被害を受けていた。かつての食堂には背丈を越える草が生い茂り、
踏み込むことさえできない。ここを経営していたソウさん、シャンさんの行方が気になる。
 
 
 
霧社から親和村へ川沿いの道をくだる。道はところどころ土砂崩れによる影響を受けているものの、
民家への被害は少ないように思う。川は土砂で埋まり、生き物の気配を感じない。
 
 
親和村を通過し、武界に着くと教会に村の住民が集まっていた。
ここの教会も地震で倒壊し、その後新しく建て替えられたものだ。その誕生を祝う催しが開かれていた。
最初の言葉が「ごはん食べたか?(布農族の言葉でミナオニ アソウ カイシンという)」。これは布農族の挨拶のようなものだ。
まだであることをうっかり伝えると、その場に招き入れられ、目の前に山の食材が並ぶ。
 
自然とかつて日本語の教育を受けた老人が集まってくる。彼らの多くは原住民の名前、中国の名前、日本の名前、3つの名前を持っている。
地震以後、部界地区へ入った日本人がいたことを覚えてくれていた。
 
食事を頂いたあと、民宿を営む原住民のおじいさんのお家にお邪魔した。
街からおじいさんの娘たちが孫を連れて集まっている。週末になると帰ってくるのだそうだ。
 
  
 
居間には震災直後の写真が飾られてあった。
 
 
 
武界から中正村へ。この方角で合っているか、少々不安になりながら山道をひたすら走る。
 
山を越えると、はるか向こうに見覚えのある埔里の街が見えた。中正村はもうすぐ、胸が高鳴る。
 
中正村のあきこばあちゃん、ちょうどこれから埔里の老人ホームに向かうところだった。
一人暮らしがきつくなり、身体は言うことを聞かない。心配した息子夫婦がちょうど台中から戻ってきていた。
旦那さんは震災直後に持病を悪くして亡くなっている。当時、私はその知らせを霧社の施設にて聞いたのだった。
寂しい、辛いという言葉が突き刺さる。あきこおばあちゃんと仲良しの政子ばあちゃんや歌の好きなおばあさんの姿を見つけることができなかった。